| 11、阿炳の伝記から②(07年6月27日) |
| 阿炳が住んでいた道教の雷尊殿は洞虚宮(宋の時代に図書館路に建てられ、その後何回か火災や荒廃が原因で廃された)に所属する6殿の一つで、規模は小さかった。父の華清和が主宰道士で日常の斎事もこなし、旧暦6月におこなう“雷斎素”という道教の儀礼・祭典には多くの人が詰めかけ、「参拝客が買い取る紙銭や蝋燭、それに賽銭などと雷尊殿にはけっこうな収入をもたらした」(道士だった尤武忠の回想)。 要するに食べることに気を使わなくてすむ生活環境が阿炳には良好な学習条件を提供したわけで、華清和の厳しい教育と阿炳本人の熱心さが音楽や芸の吸収をさらに進めた。雷尊殿のすぐそばが城中公園で、ここでは普段から市民が集まり様々な芸をする人々も集まっていた。阿炳は何かあるとすぐ出かけ、とにかく何でも見て聴いて、音楽については誰にでも教えを乞うていたそうだ。 しかし1918年父が亡くなる。阿炳がそのあとを受け継ぐこととなりしばらくは雷尊殿も賑わっていたが、阿炳がアヘンにはまり娼館通いをするようになって没落が始まった。なぜ阿炳がアヘンにはまったのか、阿炳の生涯を記したいくつかの文章にもその理由は書かれていない。当時の悪習としてアヘンは中国に広まっていたが、のめりこむようになるにはやはり何らかの理由があったのだろう。父との関係なのだろうか? いずれにしても斎事をサボるようになり、娼館で性病にかかることもあいまって両目を失明することとなる。経済的には収入不足で生活はだらしがなくなり、斎事はわずかになり道院の法器を売ることから始まり、財産の切り売りも始めた。しかし雷尊殿にはずっと住み着いていた、と書かれている。
1930年に編集された無錫年鑑の宗教部分には「雷尊殿、崇安寺にあり。住持は阿炳、常駐者は1人、3房あり」と記載され、1941年の無錫報には「図書館前の雷尊殿、今年は街頭芸人盲目の阿炳が年番で経営」と書かれていたと、「阿炳、その人と足跡」に載っている。 いずれにしても街頭芸人として生活するしかなくなった阿炳だが、培った音楽的素養はむしろこの時期から生かされる。庶民への語りを芸とした阿炳は毎日午前中に近所の商店やタバコ屋や行って皆が話している消息を聞き、午後にはその消息を唄いと伴奏で生き生きと真意迫るように語るのであった。茶館や飲み屋で芸を売っても決して人から施しを受けず、人に憐れみを乞うような姿は見せなかった。 12345678 前のページ:無錫の飲み屋さん全店情報 次のページ:
旅行常識
COPYRIGHT @ 2007-2008
無錫観光局 | ||
